工房 朋の世界

『市松人形―工房 朋の世界―』講談社インターナショナル株式会社 1997年

いくつかの転職を重ねた末に、貝殻を砕いた胡紛という素材の魅力に出会ったのが10年前のことだった。この素材を使ってならば、人形づくりを何とかやっていけるのではないかと思い決め、がむしゃらに人形の頭を作っては壊すという試行錯誤の毎日が、私たちの人形づくりの出発だった。

私にとって人形は全く未知の領域であった。
特別に偏愛を持っていたわけでもなく、関心の領域に入ってきたこともなかった。本当に“たまたま”というしかないきっかけで胡紛という素材に出会い、その魅力を生かすには人形が一等適っているという判断に賭けて、家族を含めた数人で工房「朋」を始めたのであった。
私たちにとって未知の領域での制作は、それなりに新鮮で、発見の多い毎日であった。作っていこうとする人形の方向性は、案外はっきりしていた。それは、とりあえず人形にまといつく物語性を、できるだけ削ぎ落としていくということであった。

まず、人形を一つのオブジェとして自立させること、この方向性は、人形から遠いところで仕事を始めた私たちにはかえってはっきりと見えていた。
私たちは、無数の新しい物語に人形たちが出会うことのできる条件を、人形の表情・身振りの表出性を無化するというところに求めた。その時、私たちの傍らにいつも在ったのは、大正時代に作られた薄汚れた二体の市松人形だった。視るこちら側からの物語への誘いを受け入れるかにみえながら、紙一重の場所で身をかわしてしまう。表情に埋め込まれた無垢という空虚。にもかかわらず、こちら側に、繰り返し新たな物語を夢見ることを挑発する表情の微妙な変化。表出性を極度に切り詰めた、非表情とも言うべき様式性。私たちは毎日飽きもせず、その二体の市松人形を眺めていた。
私たちが、人形の中でも、とりわけ市松人形にこだわっていったのは、このときの経験から発している。他の人形が、表情や衣装や身振りに、ある意味をまとわせることによって成立しているのに比して、市松人形だけが、それらを免れることによって、かえって、視るものの物語への自由な飛翔を可能にするように思えたからだった。

ともあれ私たちは作っていった。人形を、パターン化した物語という密室から、広い場所へ解き放っていくという私たちのモチーフは、作ることの内側では、オブジェとしての自立化と表出性の無化という二点を踏まえることによって、何とか実現できるのではないかという自信めいたものはあった。しかし、私たちによって作られた人形たちが、〈現在〉という巨大な場所に放り出されては、どこにその位置を得るかということには皆目見当がつかなかった。普通の人々の生活の裡に、人形たちが、愛玩され、抱かれ、語られていく場所はあるか。要するに、私たちは、〈現在〉において、人形の住まうことのできる場所の存否を問うていたのだ。

人形づくりを始めて三年目ほどから、少しずつ発表の場を得て、いろいろな人たちと人形を介して語り合う機会を持つことができるようになった。
各地の展示会場や、私たちの仕事場で、人形の表情や古裂の衣装についての会話が弾んだ。私たちの人形が他者の視線にさらされ、批評を受けるのは身が引き締まるような体験であった。そんなとき、驚いたことに、人形を見ている見知らぬ人同士の間に、いつしか、各人の小さいころの生活や家族の記憶の交換といったものが始まっていったのだった。そのような会話の渦はどの会場のあちこちでも見ることができた。私たちの人形が人々の記憶を紡ぎだしていることだけは確かだった。さらに驚いたことには、人形の修理を頼まれることのあまりの多さであった。

修理だけでなく、祖母や母の着物や幼児の祝い着を、人形の物に仕立て替える依頼も多くあった。しかも人形の修理や仕立て替えの依頼は、その人の家族の来歴や哀歓とともに語りだされてくるのが日常だった。このことは正直いって思いもかけぬことであった。
我が子のように抱えられて仕事場に連れられてきた、髪の毛の抜け落ちたぼろぼろの人形たちや、仕立て直しのためにほどかれた裂地に残る縫い目跡。-古い人形や古裂が、女性の家族への時間への思いのかくも濃密な形象として立ち現れてくるのを目撃するのは、男の私にとって大きな驚きであった。
家族の記憶の濃密な形象としての人形とは、現在の家族の困難さが疎外した、人形についての最後の物語であるかもしれない。あるいは、女性の身体性の奥深くに填め込まれた、家族の無意識のあらわれの形姿の一つであるかもしれない。私たちは、人形というささやかな領域を介して家族の無意識の歴史の現場に出会っているのかもしれない。

人形という場所…それは〈現在〉ではなかなかうまく視ることのできない場所のように思える。
しかし、それは、案外に広くて奥行きのある場所であるかもしれない。もしも、家族の無意識が生成する場所を、私たちが信じることができるとするならばだ。
家族に傍らにひっそりと在る、数知れない人形たち。あるいは、薄汚れて壊れていった無数の人形たち。私たちの作る人形が、それらとどこか遠いところで出会うことができると夢想することは楽しい。